ブログ記事ENTRY

COLUMN

建築とは何か

2017-11-01

建築とは何か、永遠のテーマの様にも思える。
古い教科書を開くと新鮮に思えるKey wordが組み込まれていたので、ここに紹介させて頂きます。

項目を拾うと、8 項目で、読み進むとこの本の発行されていた時代(昭和32年60年前)の背景が浮かんできます。
前川国男氏は弘前に今みても新鮮な建築を残しており文章を読んで納得していました。

以下が、文章です。Dot プロジェクト・座長 長土居正弘 TEL: 080-5550-3566 mail: nagadoi@mac.com

建築とは何か    新制 建築計画 工学博士 平山 蒿、前川国男 共著 オーム社 昭和32年発行

科学的要素+芸術的要素

時代・・・・・・・建築に対する社会のみかた、要求

 人・・・・・・・建築を創る人、利用する人

建築物の種類・・・工場であるか、又は美術館であるか

快適で能率的な生活を営むために構築される空間である。

設計の原理

[1]建築は保健的であること

建築の原始形は防禦物(シェルター)であった。今日の複雑な建築と言えども、外界の気象の刺激、変動より我々を護り、我々の生活を安じて行えるようにする。このシェルターたる性質に変わりはない。建築は温度、湿度、気流、放射熱、音響、光、ガス、煤煙、空気イオン、臭気など、物理的や科学的あるいは精神的性状について充分考慮され、快適な室内気候が創り出さなければならない。

このためには、建築を外界の気候に適応させる消極的方法と、建築の設備を完備して、外界の影響をはねかえす積極的な方法がの2つが考えられる。前者は民度が低いとき、あるいは対象が小建築の場合である。後者は民度が高いとき、あるいは大建築の場合で、社会の歴史的発展とともに次第に盛んになってゆくものとおもわれる。

まず、現在の建築の大部分に取られている消極的な方法について、見てみることにする。

日本の気候の特徴として考えられることは、

(1)年間を通じて、平均気温が高い。

(2)緯度が中位なわりに、夏冬の温度差が大きい。

(3)夏が非常に暑い。

(4)冬はまず中程度の寒さである。

(5)国が狭い割に形が南北に延びており、地方的変化が多い。

従って、北ヨーロッパの建築が防寒第一として建てられているのに反して、日本は夏本位に建てなければならない。一方、南ヨーロッパはかなり気温は高いのだが、湿度が低いから、むしろ、窓を小さくして暑い空気が入るのを防ぐようになっている。日本の夏の様に、体温と気温がそう違わなくなってくると、蒸発潜熱によって身体の熱の発散させる他は無い。この場合、空気が湿っていると発散し難いから、出来るだけ風を部屋に入れて、室内の湿った空気(呼吸や発散のために)と外の乾いた空気とを入れ換える必要がある。

このような我が国特有の気象状況に対応するために、日本の家では次のような考慮が払われている。

(1)開口部を大きくして、通風を良くする。

(2)軒の出を深くするか、ひさしをつけるかして、夏季、室内への直射光線を防ぐ。

(3)屋根を出来るだけ深く出して、夏季、壁体の熱せられるのを防ぐ。

(4)一年を通じて雨が多く、かつ、連日雨が降る梅雨の季節がある。これらの雨の日にも、開口部をあけて通風をはからなければならないので、その面からも、軒やひさしが必要になる。

(5)床を高くして、大地よりの湿気を防ぐ(建築基準法でも、居室の床高は45cm以上と定められている)

(6)家の輪郭を凸凹にして、開口部が大くれるようにする。

積極的方法としては建築設備を完備することがあるが、その内容については、計画原論や設備設計の別の記述があるので、それに譲るが、積極的方法が欧米にまず発足した理由を考える事は、我が民族の差異、科学の発展などによるところだが、何よりも大きな理由は、欧米においては気候がはげしい、それで人力によって自然を制服し、良い環境を作り出そうと自然に対する彼らの思想で有り、これに反して日本の自然は比較的温暖で、これと上手く融合すれば楽しい生活が出来る。我々の祖先は、自然と共に生きる方法を工夫し、自然に積極的に対抗する方法をとらなかったのである。

[2]建築は外力の脅威に対して安全である事

建築の持つ防禦物(シェルター)としての要素の1つである。嵐、洪水、津波、地震、火災など一時的であるが、しかも、決定的な災害を及ぼす外力に対して、建築は十分安全でなければならない。特に、日本では破壊的なこれらの要素が頻発する。構造的に安全だという躯体だけの強さを考えが、骨組みがいくら弾性的に耐え得ても、変形があまり大きいと開口部や壁体が使用に耐えられなくなる。その点、最近の大きなガラス壁を使う建築は十分に注意しなければ成らない。

[3]建築は機能的でなければならない

目的にかなって、使いよいと言う事である。

先にも云ったように、昔の建築は神殿、宮殿とか、貴族の邸などで、庶民の建築は問題にならなかった、これらの建築は権威を表象するモニュメント的な要素が主で、従って、使い勝手と言う事よりも、造形的な様式が大事であった。また、これらの時代には、建物に要求される機能も単純であって、使い難くても、空間に無駄があってもそれで済んでいたのである。処が19世紀の産業革命以来、近代建築の対象としては、工場、停車場、学校というように複雑な機能を要求する建物が多く成ってきた。それに加えて、近代社会の民主的思想の発展と富の平準化という経済的要素のために、建築のもつモニュメント的要素はは不必要になり、

(1)プランを建築の目的に適するように科学的に研究する。

(2)部屋の大きさ、形状、相互の連絡(平面的にも、また、立体的にも)等を無駄のないように研究する。という機能主義的な要素が前面に押し出されてきた。

[4]建築は経済性、および耐久性を考慮されなければならない

衣食住といわれるモノの中で、建築は他の2者に比べて、比較にならないほど,建設に多額に費用を要する。従って、建設費は出来るだけ安く、また、長期的に消費できるように耐久的でなければならない。しかし、ここで考えなければ成らないのは、いかに建設費が安くても、耐久力が貧弱で、維持のために多額の経常費を必要とするようでは、経済的とは言い得ない。

耐久力、建設費=イニシャルコスト、経常費=ランニングコストのにらみ合わせが重要である。この意味で、あまりにも貧弱なロウコスト住宅にも問題がある。

又、近代社会の急速な変化は構造的には耐用年限以前であるにも関わらず、社会的空間として耐えられない建築になる事が予想される。そういう場合、新しい機能の要求に応じて建築を可変し得るように、フレキシビリティーのあるプラン、構造にしておかなければ成らない。

これに関連して考えられることだが、なるべく建築各部の耐用年限を一致させるようなディティールが望ましい。そうすることが出来ないときは、修復や交換が容易に出来るように配慮すべきである。

又、建物の耐久力はディティールに大いに関係するので、新しいデザインをするときには、十分それに耐えるだけのディティールの研究を怠ってはならない。一般的にいって、異質の材料の接合部や、隅の部分がディティールとして問題となる個所であるが、今日の報道手段である写真は拡がりの有る面は良く表現されるとしても、こういう入り組んだ大切な部分が表現されがたい。

我々はマス・コミュニケーションによって作られた、ただ華やかなデザインに幻惑されないように戒めなければならない。

[5]建築は構造的に良く、表現は素直でなければならない

デザインの要求のために、構造に無理があっては健全な建築とはいえない。

例えば商業主義の建築によく見られるように、事実は窓がないのに見せかけの窓をつけたり、コンクリート造でないのにコンクリート造に見せかけたりするのは間違っている。

近代の造形は素材の美しさ、材料の肌の味を出来るだけそのままに生かされるべきである。

この見せかけの建築の多くは、新しい構造法、材料を十分に生かし切れない処から来ることが多い。つまり、既製のデザインをもってきて、新しい構造で行うとするときにおきる。

我々は新しい構造や材料が真に魅力を発揮するような、それにふさわしい新しいデザインを創り出さなければならない。

デンマークの建築家Martin Nyropという人は、”大きな部屋には大きな窓を、小さな部屋には小さな窓を、建築は真実を表現しなければ成らない”といっている。このように、ハッタリでなく、均衡を保ちながら、合理的に建築を計画するーーという立場を合理主義という。この立場の有名な言葉はーーー”近代建築はプランとセクションがエレベーションを決定する”というのである。

合理主義の立場はやがて、建物の標準化、規格統一化へと発展してゆく。

[6]近代建築は国際的である

19世紀以来、交通の発達はますます著しく、地球は狭くなり、世界の文化の交流は著しく盛んになった。一方建築の科学的設備の発展も、きびしい気候をよく克服出来るので、現代の建築では、地方色は少なく国際的に成ってきている。すくなくとも、外観では、フランスやアメリカ、南米でも、建築は皆同じ形をしている。段々と世界が1つになる、国際的になる、と言う事は建築のみならず、広く世界の進んでゆく潮流であるが、ドイツの建築家ワルター・グロピウスも現代建築の特質は国民性や、個人の限界を超え、世界的に一種の統一的な型を生むようになるとして”建築は常に国民的であり、常にまた個人的である。けれども、3個の同心円ーー個人、民族、人類ーーーのうちで、最後の、そして最大の円が他の二つを包括する”といっている。

処が、戦争中、ドイツや日本の反動的な思想は自分たちの野望を世界的に視野に立った批判の目から防がんとして、国際的なモノを排斥して、国民的なモノを強制した。しかしながら本来、建築の国民的なモノと国際的なモノとは本質的に相容れないものではないのであって、一般に国民的といわれているものも真に国民的なものでは無く、皮相的にそうである事が多い。

これについて、デンマークの建築家ハンゼンは次のように云っている。”良い建築は国民的である、しかし、国民的と銘打っていてる建築にろくなモノはない”

近代建築は国際的に進むことは間違いないのだが、最近、国際主義の反動として、伝統主義や、新風土主義の傾向が現れているのも事実である。

このように、建築の思想もたえず、アクション、リアクションを繰り返しながら前進するのである。

[7]建築は社会に役立つ建築でなければならない

設計者が理念として追求する建築には、建築のための建築があるかもしれない。しかし、社会の実在の形で生まれる建築はそうであってはならない。建築の一面は芸術であるので、作者の性格が必ずにじみ出る。しかしながら、その表現は自己本意であってはいけない。

個人所有の建築と云えども、建築は社会的存在であるから、常に社会一般に通じるモノで批判されている事を知らなければいけない。グロピウスは建築家の努めとして”建築家は社会を構成する衆のために奉仕しなければならない”と云っている。

[8]建築はそれ自身美しいと共に周りと調和しなければ成らない

建築は必ず形態と色彩を伴うものである。これは、どんな実用的な見地であってもそうである。しかも、社会的影響の多い大きな造形物であるので、それ自身美しく無ければ成らないのは当然である。本来、美しさとは、個人的な判断のモノなのだが、建築のように社会的影響の多い建造物では、ある程度一般に通じる客観的な立場に立って判断し、また、周りと調和して美しい事も考えねばならない。建築デザインの中で、良く個性や変化と云われるモノがあるが、まず、調和や統一が考慮された上でなければ、非常に品の悪いものになる。

以上、設計の原理として数々述べてきたが、何よりも各要素が互いに調和していなければ成らないことはいうまでも無い。また、こういう互いに矛盾する事もある要素をそれぞれを生かしながら、しかも異なった性質を互いに高めあい、調和のある完全な建築にまとめ上げる建築家の仕事は、単なる技術と異なり、明確な知識と経験はもちろん広い教養と正しい性格を必要とする。

それで、欧米では、アーキテクトという職業の社会的地位は非常に高く評価される、ということもこういう性質が一般的に理解されているからである。

COLUMN

2017-11-01

  • お問い合わせ・各種ご連絡

    TEL.080-5550-3566FAX.019-648-1082

    〒020-0135 盛岡市大新町18-13 担当:長土居

    nagadoi@mac.com